ユーラシア文化館で中華街160年の歴史展を見てくるなどした

さてさてさて....

学校からユーラシア文化館のパンフが配られていたっていうのと、チケとパンフがおいてあって少し気になっていた中華街の歴史展

正確には

公演: 企画展「横浜中華街・160年の軌跡 この街が、ふるさとだから」・常設展 - Yokohama Chinatown, 160 years history / Permanent Exhibition
会場: 横浜ユーラシア文化館 - Yokohama Museum of EurAsian Cultures

 

(以下「お母さん」)に話を聞いたらなんとお母さんの半生の記述と写真が展示されているというので行く後押しに

ムッスコが耐えかねてたので読み飛ばすように行ってきたけれどよかった

やはり中華街は横浜大空襲でまっさらに焼けていてお母さんが言ってた「あのころは山下町から桜木町の駅が見えた」という言葉が真実味を持って実感できた

 

あー焼けて何もなかったよwwみたいなノリで話すから軽いもんかと思ってたら

お母さんにとっての横浜大空襲って生きるか死ぬか+母親の片手吹っ飛んで使い物にならなくなった大事件じゃないですか、、大変でしたね

 

片手が吹っ飛んでたというお母さんのお母さんはもうなくなって10年くらいかな 旦那さんもなくなって20年くらいたつだろうか?

当のお母さん自身は、毎月元気に生きてるからあんまり気にしたことなかったけどいろいろ波乱万丈な人生を送っておられる

声大きくて元気なんだよね、

 

華僑三世とは知らなかったし、帰化したからにはお母さんが一世なのかと思っていた。なるほど洋裁屋の娘で、、、ってまじで中華街の華僑の伝統を地で行くような人じゃん

横浜中華街の華僑の最初の仕事は翻訳とか貿易商社とかだったんだけど、次第に洋裁と理髪と料理屋に収斂していくんだよね。→三把刀(さんばとう)

大震災を経て、空襲や戦災を経てなお異国に留まり続けることは容易ではなかっただろうね

言わんだけでそれなりに被差別対象になっただろうし

 

日本人と結婚して、きっと息子には日本人として生きてほしかったのだろうな

だからおそらく息子は中国語を話せないのだろう おそらく教えられなかったのだろう

お母さん自身、中国語の知識は繁体字の時代でストップしてるから簡体字はあまり読めないと言ってたが日本語話者としては日本人そのもののそれだし、中国からの旅行者がきたときは北京語も話していたので、それなりのバイリンガルなのだろう

それでいて子供らに中国語を教えなかったというのは、きっとお母さんに某方かの決断があったのだろう、、という想像

夫と結婚するまでに10年近くかかっていることことから色々考えるものがある

 

ほかにも菜香の曽さんとか江戸清の高橋さんとか、そうそうたるメンツがいたんだけど、お母さんってこのへんのメンツに顔を並べるレベルの古参だったんだなwww

さすが

客との付き合いが半世紀レベルとかざらにあるところがすごい

 

そういう土着あこがれるなあ(そういう軽い話でもないのだけど)

お母さんも日本人と結婚しなかったらどうなってたんだろうね

 

お母さん自身中華学校の出であることも知らなかったし、息子に理由もこれで少しはっきりしたかな

でも、子供の気持ちはきっと、華僑成分は多少なりともあったんだろうな

だから、孫たちは中華学校に行ったんだろう

そして孫たちの素行をみて、我が家も息子を中華学校に行かせようと思ったのだ
なんか、連綿としてる感じしない?(しない

 

日展示を見てはっきりしたが、中華街は横浜の歴史の重要な一部で、その中でも中華学校は、今でこそ台湾系の横浜中華と大陸系の山手中華に分離しているものの、両者ともに中華街の無形文化財なのだなと

我ながらなかなか面白いところに子供をよこしたものだと思った

俺は日本人だし、アイデンティティ愛国心も日本にはあるものの、国というものをあまり信頼してないので、割とニュートラルな視線なんじゃないかという自負があるので、今後子供と我が家、そして我が家を取り巻く環境がどうなっていくのかきおくをのこして行ければと思う

そしてこのブログを見る資格があるあなたは もし俺が先に死んだら適当に「こんな漢字だったっぽいね」っていいうのを緩やかに頼むわ 謎

 

まじで謎

 

お母さん「まぁさぁ、中華街で100年くらいやってると色々あんのよ」

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